元気にやっていますか?
私は相変わらず、曖昧な空白とともにふらふらする毎日です。
健体壮美なあなたのことだから大丈夫だとは思いますが、
くれぐれもお体にはお気をつけください。

2009/10/24

[小説]1000の小説とバックベアード 佐藤友哉


著者に敬意を表して、私も自由に書かせてもらおう。

やがて消え去る、失われていくものに気遣いは無用だ。結局はクズなのだ。いや、電子データはクズにすらならないか。
同い年。1980年生まれ。ほとんど全てのものに対する絶望、とても共感できる。
著者自身の小説家としての葛藤を象徴的によく表現していると思う。
くだらない大衆小説をせっせと紡ぎ出すエセ小説家、
それを読んで感動する大勢の人々、
本屋に平積みされた恥ずかしい広告帯のベストセラー、
素晴らしい小説を書いた過去の偉人たち、
素晴らしい小説を書きながら完全に忘れ去られた人々、
それを嘲笑う自分、見下して割り切った文章を綴る自分。繰り返し。繰り返し。繰り返し。
小説がある種の力を持ち、人に何かしらの影響を与えるのは確かだ。しかし、それが何だって言うのだろう。それに書きたいことなんて何もないのだ。
しかし、完全に希望を捨ててしまうことは難しい。1980年生まれ、僕らはまだ若いからだ。
絶望の淵に立ちながら、ほんのわずかな、曖昧で、目に見えない期待を抱いてしまう。
でも、それでいい。少しでも認識をすることが大切だ。認識が全てだ。
そんなゼロに近い期待でも、自己の内にバックベアードがいれば、明晰な認識が昇華するはずだ。バックベアードを飼っていることは才能だろうか?今自分が眺めているものはバックベアードであろうか?
いや、そんなことはどうでもいい。バックベアードがいなければ、目玉の親父だっていいのだ。重要なのは、認識できるか否か、それだけだ。

絶望と葛藤を書き出すのはよかったが、終わり方があまりにも陳腐で残念だった。
自分のアパートに戻りながら、小説によって世界を循環している幸せを噛みしめて笑う。きらきら輝きながら笑う。そして生きている僕。
あまりにも若くてちゃちな達観だ。もっと泥の中を進め。バックベアードを飼いならせ。
佐藤友哉氏には間違いなく才能があると思う。現代的で、小洒落ていて、テンポがいい、文章もうまい。
しかし、それはただの才能だ。才能を持つものならば、それを何か別のものに変えなければならない。というか変えて欲しい。変えていただきたい。
より「深く」潜れる可能性を感じさせる。でもまだ浅い。足りない。
この小説の終わり方が、意図的な嘲笑を含んだ逆説的文章であることを願う。

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