元気にやっていますか?
私は相変わらず、曖昧な空白とともにふらふらする毎日です。
健体壮美なあなたのことだから大丈夫だとは思いますが、
くれぐれもお体にはお気をつけください。

2010/02/27

松岡正剛の読書術

知の巨人、松岡正剛の読書術と言ったら誰でも気になるだろう。
最近、「17歳のための世界と日本の見方 松岡正剛(2006年を読んで、改めてその博識振りに感嘆したので、「多読術 松岡正剛(2009年を読み返してエッセンスをまとめてみた。
  • 読書を崇高な営みだとか、大変な行為だとか思わない。カジュアルなもの。食事をしたり、雑誌や漫画を読んだりするのと同じで、日々の生活行為とみなすべき。
  • 同じ本でも、その時のコンディションで感じ方が異なる。(いつ、どんな気分で、どんな感受性のときに)二度読みしたときの「開き」「溝」が重要。
  • 読んでもわからないというのはよくあること。3割5分の打率で十分。わからないという事実を楽しみ、齧り付いていくことで読書力がつく。
  • 無知だからこそ読書はおもしろい。無知から未知へというのが読書の醍醐味。
  • 全力で読もうとしすぎない。
  • 理解できるかどうかわからなくても、どんどん読む。読みながらペースを変える。
  • 書いてあることと自分が感じることを混ぜる感覚を持つ。
  • 読んでいるとわからなくなるものもある。
  • ハズレ本を読むこともあるのは当たり前。これも3割5分の法則として許容する気構えを持つ。
  • 本はすでにテキストが書き込んであるノート。自分の感覚でマーキングする。マーキングすることで、集中力、再読するときのスピードが上がる。
  • 読書に平均的な方法はない。自分の読中感覚を多様にイメージできるようにする。
  • 好みは細部において極めて多様で複雑。その多様さ、複雑さが個性であり、傾向をぼんやりと浮かび上がらせる。食の好みをイメージするとわかりやすい。
  • わかったつもりで読まない。伏せられたものが開いていく作業だと考える。
  • リスクを伴うことを覚悟する。背信、裏切り、負担。
  • 本と本のつながりを意識して、複線的・複合的に読む。複数冊の本を束で捉える感覚。柔らかい系統樹。
  • 思考や表現の本質はアナロジー(類推)である。どんなことも堅く考えない。自分自身の連想を創出し、大切にする。
  • 読み手は用語、人物名がわからないというハンディキャップを当初から背負っている。様々な辞書を手元におき、臨戦態勢で臨む。
  • インターネットによる情報検索は、連想力を落とし、知の構造を曖昧にする。「あいだ」が抜け落ち、検索結果の表示順でしかアクセスできないことが問題。
  • 読書はナイーブな行為であり、フラジャイルである。挫折も失望も含まれている。
  • 読書は他者との交際に等しい。微妙で、どぎまぎしたものを含んでいる。
    目立って奇抜な方法論はない。謙虚な姿勢が印象的。わかり易い隠喩や実話を用いて、それぞれの要素の重要さを語っているので、読者はそれを了解し易い。ただし、わかったからといってすぐに読書力が上がるようなTips的なものは少ない。読書の本質を柔らかく伝えているといった体だ。

    以下は、本人について語ったことのうち、気になったところ。
    • 大学時代の読書はトレーニングと割り切っていた。
    • この三十年間、ほぼ毎晩午前三時以前に寝たことはない。
    • 元気が出てくる源泉は、「曖昧な部分」「きわどい領域」「余分なところ」。こういうところに意味が創発してくる。そこがセンシティブであるからこそ、それをバネにしていい。
    つまり、人生の大半において、半端でない努力を継続しているということ。これはもやは読書"術"ではなく、経験に裏打ちされた実力だ。
    もっとも気になったのは3つ目で、読書という行為の裏には、松岡自身のフラジャイルな部分が潜んでいると仄めかしている。読書によって何かを求める輩が本当に知りたいのは、まさにそれなのだ。なぜ大学時代の読書をトレーニングと割り切れたのか、睡眠時間を削ってまで本を読み、モノを書くモチベーションは何だったのか。彼の何がそうさせたのか。

    最後は、狩野亨吉の名言を。
    自由なんてものはキリスト教がつくったフィクションだ。日本人は日本のネッセサリーをもっと複雑にしていけばいいんだ。

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